裁判員制度

NHKの週刊ニュース深読み裁判員制度のことが取り上げられていました。
制度に完璧ということはありえないものの、司法の国民参加はやはり今後も促進されるべきだと私も思っています。
司法の問題について与えられた発言権を、国民の側でもって葬り去る必要は全くないでしょう。
たとえ死刑制度そのものに反対であっても、その裁判員自身が「この案件において国家が被告人の命を奪うことに私は素人の立場から反対します」と主張し続ければ、その人なりの責任を果たしたことにはなると思いますし、公共領域への重要な意思表示の一歩にもなりうると思います。
大学生の皆さんについては、もし今後裁判員に選ばれることがあれば、「負担」などと考えず、むしろ、自分が良い判決に導こうという気概を持って臨んでほしいと、本当に思っています。
後藤昭先生の言葉を再度引用します。
「人は、未知のものに希望を託して新しい可能性を追求するより、不満を持ちながらも慣れ親しんだものに執着するのだろうか。それこそ、究極の保守主義ではないだろうか」(岩波書店『世界』2008年6月号,p. 100)

庄司興吉先生「中間」講義

2012年1月21日、清泉女子大学において、退職される庄司先生の特別講義がおこなわれました。
話は先生の幼少期にさかのぼり、疎開先の山形から都心の中学に進み、当時の最先端の文化や教養に触れていったご様子を窺うこともできました。
社会科学に深い関心を持ちながら、世界を渡り歩いて世界市民学を構想し、長年大学生協にも関わってこられた庄司先生ですが、現代社会を把握してゆく中で、近代化したヨーロッパ社会にも、人種民族的階層構造があることに気付き、しかしそれを是正してゆく市民の力にたいへん期待をかけてこられたようです。また、日本の大学生協というのは世界的に見てもまれな集合体で、学生が理事会に入り主体的に運営してゆくという仕組みを持っているとのこと。
今後も地球市民塾などを通じて、市民の事業によって社会を良くしていくことをサポートされるご計画だそうです。したがってこれは最終講義ではなく中間講義であるとのこと。ますますのご活躍を祈念します!

大学改革と大学生協―グローバル化の激流のなかで

大学改革と大学生協―グローバル化の激流のなかで

仁平典宏先生「世代論を読み直すために:社会・承認・自由」

仁平典宏先生「世代論を読み直すために:社会・承認・自由」(湯浅ほか編『若者と貧困』2009所収)を読みました。世代格差論への優れた要約、と新聞の書評欄で紹介されていたからですが、確かに、多くの情報を手際よく整理し、著者氏の主張も明快で、たいへん勉強になりました。
今の格差社会は、現代の若者がナサケナイせいなのか? それとも団塊の世代が世代的幸運で勝ち逃げしてしまったせいなのか? 著者氏は、そうした対立は不毛であると言います。
戦後の歴史を振り返ると、むしろ団塊以前の世代の頑張りによって、日本は後発近代化の国家として、例外的にめざましい発展を遂げたと言います。そしてそれは、大企業の正社員男性が一家を支え持ち家を買うという、ごく一部の人のライフスタイルを標準とする「日本型生活保障レジーム」によるものでした。
しかし1980年代でそうした時代は終わりを迎え、遅れたネオリベラリズムの時代がやってきます。旧来のシステムはもはや金属疲労を起こしているのに、若い世代はそれでも生活の安定のために、少ないパイを競争的に求めるのです。団塊の世代は、体制やムラという旧来の秩序の解体に喜びを見いだせたかもしれませんが、若い世代にとっては、既成秩序の崩壊はもはやデフォルトで、運と偶然性に左右される個人化した社会はさらに進化しています。
社会という言葉には、恵まれた人とそうでない人とをともに包摂するという福祉的な意味合いと、社会に対して負荷をかけてはいけないんだという自己責任論的な意味合いの2つが表裏一体であったと著者氏は言います。
結論としては明確で、日本でも社会保障社会福祉を拡充し、大企業正社員的なライフスタイルのみを標準とするような社会モデルの相対化を推奨しています。

若者と貧困(若者の希望と社会3)

若者と貧困(若者の希望と社会3)

自己啓発セミナー今昔/神谷光信先生著『ワーナー・エアハードとest』

小久保温先生に間接的に教えていただき、神谷光信『ワーナー・エアハードとest』2011、を入手、読了しました。目下ネット通販のみの扱いです。
http://www.mybookle.com/indiv/bookle/2553
日本ではあまり知られた名前とは言えませんが、アメリカ1970年代の自己啓発セミナーと言えば、ワーナー・エアハードが創始したエアハード・セミナーズ・トレーニング通称 estが代表格であり、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント(人間潜在能力開発運動)の大衆化に大きく貢献した存在だと言えるでしょう。
著者氏自身、estの後身、ランドマーク・エデュケーションの日本での活動に関わっていた経験があり、さらにこの本は、キリスト教研究的な視点を交えて書かれています。
日本では類種の邦語文献がないという意味でも貴重な一冊です。内容は、エアハードの半生、estトレーニングの内容についても書かれています。1933年からの歴史がある「エラノス会議」(東西の宗教系知識人会議)に、2006年にエアハードが呼ばれておこなった講演内容や、受講生にはナミさんの名前で親しまれていた、日本のランドマーク・エデュケーションのトレーナー小南奈美子の半生(初めて知りましたが、かなり波瀾万丈な人生を送った方のようです)についての情報があるのも貴重だと思います。
しかし、est関連文献レビューなどもありましたが、大半は1970年代の文献に限られているのもまた事実。アメリカの過去の一ムーブメントを踏まえ、現在の社会学徒である我々は、何を学び何を研究するべきなのか。そういうことを読み終わって思いました。
estのような、高額・大人数・個人向けの、いわゆる自己啓発セミナーは衰退してしまいました。しかし、教育では自尊心の涵養が叫ばれ、組織の研修にもグループワーク的な手法が使われたり、また、市民運動の学習現場でも「世界が百人の村だったらワークショップ」などが用いられたりするようになりました。estや自己啓発セミナーは衰退しても、「1970年代心理療法の精神」は、かたちを変えていろいろな場所で受け継がれているようにも思えます。なかなか難しいですが、そのあたりを追求してみたいと思っています。

上野千鶴子先生講演会「生き延びるための思想」

2011年7月9日、東京大学本郷キャンパス・弥生講堂にて表題の講演がおこなわれ、拝聴してきました。
震災復興支援とも銘打たれたこの講演は、先頃東大名誉教授になったばかりの、上野先生の長年の研究姿勢を振り返る90分でもありました。
世代を反映し、やはり上野社会学は、根底には社会変革への熱き思いがあるのだと私は思います。
クリスチャンホームで育った上野先生は、祈りとは「無力な者の営みに過ぎない」と考え、10代でキリスト教を離れ、人の作ったもの(特に個人にとって障壁になるもの)は人が作り替えられるはずだ、と確信していたそうです。
1970年10月21日の国際反戦デーをもって、日本の第2派フェミニズムはスタートしたそうですが、1970年までの「近代」というものに、フェミニズムは批判的な視座を持っていたと言います。
しかし、今の社会を今の社会にしてしまったことについては、実は女性も無罪ではない。上野先生はそうも言います。婦人参政権を導入しても、戦争が防げるわけではなかった。選挙行動の研究から類推すれば、保守一党支配、原発開発を支えてきたのは、女性有権者であったとも言える…。そういう両面を決して無視しては居ません。
そして、1985年から、男女雇用機会均等法が始まります。実は多くの女性団体は、均等法導入に反対の姿勢だったと言います。男女共同参画とは、オトコの作った社会のルールはそのままに、優勝劣敗の原理で女性も競争に巻き込まれてゆくもので、いまふうに言えばネオリベラリズムの論理であったと批判します。
そして「マルクス主義フェミニズム」として、最初は「家事=不払い労働」の問題を、(1)「家族」と(2)「市場」の2領域から論じていましたが、次第に(3)「国家」という領域を想定して「ナショナリズムジェンダー」の問題に至り、近年では(4)「協」の領域、すなわち市民がともに助け合う福祉的・ケア的領域を組み入れるようになり、ここに、上野社会学の4つの次元ともいうべきものが完成します。それは、究極には新しい共同性の創造の提唱でもあったのです。4つめの次元に至る背景には、障害者の当事者運動から、自身のフェミニズムもまた「社会的弱者の自己定義権」をめぐる闘いであった、という気づきがあったそうです。
学問とは、自分の経験を、安心できる聞き手に対して、伝わる言葉で語る営みである、との指摘もありましたが、セラピーを研究している立場からすると、それは実は、上野先生の共同性の理想像のようにも思えました。
最後には、自身の撮影した、飛行機から見た青空の写真に"Sky is the Limit(限界なんてない、という慣用句)"という文字列をあしらったスライドを映して、原爆後の青空がきっと日本の復興の原点であったであろうことと結びつけておられました。まさにそれは、終戦というスクラップ&ビルドからスタートした戦後民主主義を背景に、全共闘時代を経て、1980年代には広告代理店的な自己表現を武器に論壇のスターとなった上野先生らしい締めくくりであったように私には思えました。
「規範の相対化」と「社会変革」と「自己への関心」。その3要素が、上野社会学を形作ってきたのではないでしょうか。

*この講演は文學界2011年9月号に再録されました。

堀江宗正先生著『若者の気分 スピリチュアリティのゆくえ』/スピリチュアル・ピープルの現代的実像とは…

ニューエイジ宗教は必ずしも新しくない」等と言われて久しいですが、現在の日本で、スピリチュアルを信奉する、しかもその中でも若い人の実像とはどんなものなのでしょうか。この本では、その難しいタスクにチャレンジしています。

スピリチュアリティのゆくえ (若者の気分)

スピリチュアリティのゆくえ (若者の気分)

宗教学者である著者氏は、主にmixiなどを通じて、スピリチュアルに関心のある4名の大学生とのインタビューに成功し、それをもとに対話的・共感的に議論を進めています。(このシリーズの性格を反映し、学術書というよりは、著者の個人史や批評も交えた「読み物」という体裁となっています。)
登場する風太君、音葉さん、美月さん、神生君(いずれも仮名)は、それぞれ、オーラ見える系、アート系、宇宙人コンタクト系、拝み屋系ともいうべき自身のスピリチュアル世界を育んできています。また、全員に何らかのかたちで親族内に新宗教信者がいる(いた)こと、消費されるスピリチュアル・ブームには次第に懐疑的になっていったことなどがおおむね共通しています。しかし、著者氏も含めて、この本で登場する人全員が、霊的なことがらをめぐり、「『ほんものの何か』がどこかにはある」ということは疑っていないように見えます。また、家族内に新宗教の背景があることが多いというのは、堀江先生の個人史とも共鳴しているそうです。
そして、本全体を通してしばしば浮上してくるのが、彼ら/彼女らが、スピリチュアルについて、同年代の友人達には秘密主義的な態度を取ることが多いということです。
こう見てくると、「同世代にも秘密にするような、特定でマニアックな趣味を共有する、それぞれは別個の若者についての記録集である」という印象も持ってしまうかもしれませんが、著者氏は若者たちに実に注意深く耳を傾け、インタビュー対話記録にも丁寧な振り返り作業をおこないながら論じています。
全体を通じて著者氏は、人間がスピリチュアリティを探求するクエストの可能性に大きな期待をかけているように思えました。時代が変わっても、目に見えないものへの想像力によって人間の文化や意識が形づくられるのは変わりません。この本は、個人に即しながら、スピリチュアリティをめぐる「連続と革新」を見つめる作業なのだと思いました。それは、博士論文で心理学史をとりあげた堀江先生による、人間の精神の営みの「連続と革新」を解釈するこころみでもあるのだと思いました。
この本は「ニューエイジャーって一体誰? どこにいるの?」という疑問にもある程度答えるものになっています。著者氏自身のreflexiveな振り返りも交えたハーフ・アカデミックな作品であるとは言え、ここで展開されているような、対象者の詳細なリアリティに迫った丁寧な作業こそ、現代宗教研究が積み重ねるべきものでしょう。

中西新太郎先生著『若者の気分 シャカイ系の想像力』(ブログ加筆修正しました)

教養衰退後のオタク的心性は、非政治的だと解釈されそうですが、この本で中西先生は、青少年向けのジャンル「ライトノベル」を読み解く限り、必ずしも非政治的とは言えない、と結論しています。

シャカイ系の想像力 (若者の気分)

シャカイ系の想像力 (若者の気分)

1 ライトノベルとは

おおよそ1990年代後半以降に日本でブレイクしたライトノベル群は、構造改革以降の日本の若者の心性を映し出していると著者氏は言います。
ラノベは、もちろん広義にはジュビナイル・ポピュラー・フィクションであり、過去の青春小説との連続性もあるのですが、書き手・読み手の年齢が若いこと、成長が必ずしもテーマになっていないものもあること、萌え系の表紙・口絵があること、ファンタジー世界を描いたものも多いこと、などに独自性があるそうです。
そして、内容的には、学園で孤立している「透明な自己」のキャラクターが、内省的で、常に現実に対するコミットを留保していることが多いらしいです(韜晦[トウカイ]の話法)。また時に「俺様主義の美少女」が登場するそうです。
ライトノベルに描かれた世界とは、ゼロ年代の若者にとっての、学校権力という大人世界、日常圏における疎外感をあらわしているそうです。まるで、今の若者にホッと出来る親密圏などないと言っているような感じすらしますね。

2 シャカイ系の想像力

最後に結論部で著者氏は、次のように述べます。
「既存の秩序の不動性を暗黙の前提として『意識革命』をめざす『自分さがし』の問題系とは異なって…日常圏と社会圏とを分断することなく、自己の生の現実に引きつけて閉塞から脱出を探る心性を…シャカイ系の想像力と呼ぼう」(p. 131)
そして、多くのライトノベルは、結末で普通人として生きることを引き受けることによって、そうした脱出を密かに志向しているとし、その意味で、オタクを非社会的とするのは当たらない、と主張しています。
しかし最終的には、ラノベを知らない私としては、結論部の「シャカイ系の想像力」の議論は、わかりやすいものではありませんでした。著者も「はじめに」で言及している、スギタシュンスケさんのブログにおける「シャカイ系」の説明のほうがクリアに理解できました、スギタさんは、宇野常寛さんを引きながら、恋人との親密な関係性のみの「セカイ系」でもなく、現実追随的にコミットするのみの「サバイブ系」でもなく、社会におけるサバイバルを通して人が絆を回復し、「しかもそのことが、同時に、システム・ゲームの改変・改良・改革へと結びついていく」ことを「シャカイ系」と呼んでいます。
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20090806
私のフィールドとの関連を少しだけ書くと、ラノベは、ファンタジックな世界を自己のアイデンティティの拠り所とするという意味では、スピリチュアリティとは結構重なる面があるように思いました。自己啓発は、思いっきりサバイブ系ですね。

3 社会性の獲得など

著者氏の説明するライトノベルは、どこか尾崎豊的ティーン心性を、少年ジャンプでは飽き足らなくなったオタクたちのために結晶させた作品群のように思いました。あるいは、大槻ケンヂさんの歌詞世界も思い出しました。
本田先生の本でも思いましたが、著者氏の視線からは、やはり日本社会が子どもというものを非常に大事にしている様子も窺えました。
「たとえ『平和』なやり方で成長を遂げようとしても、たがいの関係に優劣を持ちこむ力によって、平凡であるがゆえにフラットだった関係は分裂の危機に見舞われる。『社会』はそのように1人ひとりの日常圏に介入し、生きづらさを常態化させる」(p. 143)
と言いますが、学校的空間ってそういうものなんじゃないでしょうか。学力競争とクラス内地位闘争。そのどちらも、排除してゆくのは現実には難しいでしょう。
中西先生がラノベを大変愛好されているのは非常によくわかる一冊ではあります。「ベタ」「ネタ」「スイーツ」といったネットスラングも登場するこの書は、岩波書店としても冒険だったかもしれません。願わくば、注釈的、譲歩的但し書き、そして括弧を使った補足は、もうちょっと整理していただけるとありがたかったです。また、日本の他のベストセラーとの比較も欲しかったところです。たとえば、村上春樹さんの初期の作品だって、充分に青春小説であり、羊男なるものが登場するファンタジックな面はありました。
自意識過剰を乗り越えて、社会と折り合いをつけていくのは、青年期の成長の特徴ではあります。ただそれに関して、ラノベから明快な解を読み取ることは、現状ではまだ困難な気がしました。

4 その他

いくつか疑問に思ったのは、
ライトノベル的物語は、アニメ/漫画というメディア上でも良いように思うが、小説に特化する理由は何なのか?
ライトノベルの何が「ライト」なのか?
ということもこのジャンルの素人として思いましたが、これはラノベに詳しい院生さんに訊いてみようと思います。
追記:最後の2点は、「ローコストで作品化できるメリットもある」「『ハードSF』に比べて、科学的考証も必要なくファンタジックなストーリーが展開するという含みがある」というご返答をいただきました。)