上野千鶴子先生講演会「生き延びるための思想」

2011年7月9日、東京大学本郷キャンパス・弥生講堂にて表題の講演がおこなわれ、拝聴してきました。
震災復興支援とも銘打たれたこの講演は、先頃東大名誉教授になったばかりの、上野先生の長年の研究姿勢を振り返る90分でもありました。
世代を反映し、やはり上野社会学は、根底には社会変革への熱き思いがあるのだと私は思います。
クリスチャンホームで育った上野先生は、祈りとは「無力な者の営みに過ぎない」と考え、10代でキリスト教を離れ、人の作ったもの(特に個人にとって障壁になるもの)は人が作り替えられるはずだ、と確信していたそうです。
1970年10月21日の国際反戦デーをもって、日本の第2派フェミニズムはスタートしたそうですが、1970年までの「近代」というものに、フェミニズムは批判的な視座を持っていたと言います。
しかし、今の社会を今の社会にしてしまったことについては、実は女性も無罪ではない。上野先生はそうも言います。婦人参政権を導入しても、戦争が防げるわけではなかった。選挙行動の研究から類推すれば、保守一党支配、原発開発を支えてきたのは、女性有権者であったとも言える…。そういう両面を決して無視しては居ません。
そして、1985年から、男女雇用機会均等法が始まります。実は多くの女性団体は、均等法導入に反対の姿勢だったと言います。男女共同参画とは、オトコの作った社会のルールはそのままに、優勝劣敗の原理で女性も競争に巻き込まれてゆくもので、いまふうに言えばネオリベラリズムの論理であったと批判します。
そして「マルクス主義フェミニズム」として、最初は「家事=不払い労働」の問題を、(1)「家族」と(2)「市場」の2領域から論じていましたが、次第に(3)「国家」という領域を想定して「ナショナリズムジェンダー」の問題に至り、近年では(4)「協」の領域、すなわち市民がともに助け合う福祉的・ケア的領域を組み入れるようになり、ここに、上野社会学の4つの次元ともいうべきものが完成します。それは、究極には新しい共同性の創造の提唱でもあったのです。4つめの次元に至る背景には、障害者の当事者運動から、自身のフェミニズムもまた「社会的弱者の自己定義権」をめぐる闘いであった、という気づきがあったそうです。
学問とは、自分の経験を、安心できる聞き手に対して、伝わる言葉で語る営みである、との指摘もありましたが、セラピーを研究している立場からすると、それは実は、上野先生の共同性の理想像のようにも思えました。
最後には、自身の撮影した、飛行機から見た青空の写真に"Sky is the Limit(限界なんてない、という慣用句)"という文字列をあしらったスライドを映して、原爆後の青空がきっと日本の復興の原点であったであろうことと結びつけておられました。まさにそれは、終戦というスクラップ&ビルドからスタートした戦後民主主義を背景に、全共闘時代を経て、1980年代には広告代理店的な自己表現を武器に論壇のスターとなった上野先生らしい締めくくりであったように私には思えました。
「規範の相対化」と「社会変革」と「自己への関心」。その3要素が、上野社会学を形作ってきたのではないでしょうか。

*この講演は文學界2011年9月号に再録されました。