佐藤雅浩先生著『精神疾患言説の歴史社会学』

だいぶ前回の更新からあいだが空いてしまいました。
最近は若い皆さんの研究に触発されることも多いですが、精神医療の社会学では、上記のこの本が白眉でしょうね。
昨夏には書評会などにも呼んでいただきました。
新聞から近代日本の精神疾患言説を丹念に追った労作です。

MAD MEN、ハウス・オブ・カード

あまちゃん半沢直樹で久々に盛り上がった今年の日本のドラマ界でしたが、アメリカンドラマも変わらず秀作が輸入され続けていますね。
よく見ているのが、1960年代アメリカ、ニューヨークの広告会社を描いた愛憎ヒューマンドラマ、MAD MEN
http://axn.co.jp/program/madmen/
残念ながら、シーズン5は日本のCSでの放映の見込みが立っておらず、TSUTAYAで借りて2週間で観てしまいました。
マッドメン シーズン5 (ノーカット完全版) DVD-BOX
このシーズン5、連続エミー賞を逃したシーズンながら、個人的には非常に見せ場の多いエキサイティングなシーズンだったと思います。
ネタバレになるので詳細は避けますが、数名、重要なキャラクターが本シーズンで番組を離れます。
それぞれの苦悩、それぞれの狂気が、複雑な伏線の中で織り成されていくストーリーは見事! の一言でした。

イマジカBSで放送が始まったばかりなのは、House of Cards。
http://www.imagica-bs.com/yabou/house_of_cards/
ケヴィン・スペイシーが画面に出てくるだけでヒューマンドラマが始まりそうに見えるのは、やっぱり貫禄ですね。
新大統領就任後、国務長官を約束されていた政治家が、その約束を反故にされたことから始まる復讐劇、という感じですね。まだ1話しか見ていませんが。

こうしたアメリカのヒューマンドラマに通底しているのは、徹底した人間不信なトーンです。移民たちが作り上げた弱肉強食の社会だからでしょうか。
特にMAD MENは、虚飾に満ちたイメージ戦略の世界を描くことによって、現代のアメリカ人の苦悩の源泉がどこらへんにさかのぼれるのかを描く作品として成立しているようにも思えます。

グローバリゼーションとスピリチュアリティ/文化接触の創造力

久しぶりに単行本に寄稿しました。

文化接触の創造力

文化接触の創造力

拙稿タイトルは「グローバリゼーションとセルフ・スピリチュアリティ」です。
1万字程度の短めの文章になりました。
教文館のサイトにも掲載されています。
http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/67931

たをやめオルケスタ

私の最大の趣味は音楽なのですが、このところ注目しているのがたをやめオルケスタ(インディーズ・バンドと言って良いでしょう)。
http://www.youtube.com/watch?v=T9uDtcyJfsY
女子18名のブラスバンドです。とにかく、ライブハウスで聴くと多数の金管楽器の迫力にまずは圧倒されます。
ビッグバンドを基本としながらも、J-POPやそのほか様々な音楽の要素が融合し、曲も聴きやすく素敵なものばかりです!
http://tawoyameorquesta.com/
結成は2008年ごろらしいのですが、このほど初・スタジオフルアルバムもリリースされる見込みで、ちょうどのぼり調子のアーティストと言えるでしょう!
もともと、20台の後半にヴィレッジヴァンガードバンバンバザールを知り、ジャグ、スウィング、ビッグバンド系の楽しさに触れ、その後下北沢の路上でジプシーヴァガボンズに出会いました。ジプシーヴァガボンズのボーカル秀子さんが、たをやめオルケスタにも参加されています。
ライブハウスずきの人なら要チェックです!

ダニーのサクセス・セラピー

日本でも題名に「セラピー」の入ったドラマが放映されています。
CS/ケーブルチャンネルAXNでの「ダニーのサクセス・セラピー」(原題 Necessary Roughness)です。
http://axn.co.jp/program/necessaryroughness/index.html
アラフォーとおぼしき、女性セラピストのダニーが、アメフトの選手(おもに問題児)たちに催眠療法を施してゆきますが… ダニー自身も、ティーンの子どもたちを抱え、離婚係争中! という設定のドラマです。
初回を観たのですが、催眠療法が、かなり実態に則して描かれていますし、毎回、セラピー的なテーマもあるようで、たいへん興味深かったです(たとえば、怒りを抑えるには…? など)。
アメリカンドラマの初回はパイロット版としてお金をかけて作られることが多いですが、もしこの初回の質を保っていけるのならば、エンタテインメントとしてもなかなかの出来だと思いました!

日本の大学でも「アカデミック・ライティング」を必修にすべきです。

この時期、いや、この時期だけではありませんが、学生指導においてよく問題となるのが、レポートや卒論におけるいわゆるコピーペースト問題です。
原理原則としては実は単純で、
・他人の文章をあたかも自分の文章のようにそのまま使ったら、それは盗作・ひょうせつ。
・他人の文章を紹介する時は、必ずカッコに入れて示し、出典(どの本の何ページからのものか)を明示する。
ということに尽きます。
私がこれを最初に習った時「日本人学生は、他人の文章をよく盗作することが見受けられるので注意するように」とテキストにも書いてありました。

しかし、実際には、こうした無断借用は、なかなかなくなりません。
盗作が判明した場合、これは国によっては、学問の世界から永久追放されるぐらいの罪とみなされます。
本来ならば、レポートに盗作が見つかった場合、その学期の科目をぜんぶ不可にしてもおかしくはないぐらいなのですが、日本の大学内でこのことを議論していると、結局のところ「学生自身がそうしたルールを充分に知っているとはいえない」という話になったりするのです(!)また、大学院生ですら、よくわかっていない学生さんが時々おられます。

これに対する有効な対策は、もはや「日本語によるアカデミック・ライティング」を、大学全体の必修科目にするか、または1年生の基礎ゼミなどをアカデミック・ライティングに特化した内容の演習にするのがベストだと私は思います。
アメリカニクラベテオクレテイル、という論理で話をするのは好きではありませんが、この件についてだけは、アメリカですと、おそらくどんな僻地のどんなレベルの大学であろうとも、アカデミックライティングのクラスは1年次必修だと思います。

「引用の作法」を熟知することは、過去の「知」に学び、自己の思想を確立する際の、不可欠なファースト・ステップだと言えるでしょう。

大学院生活のTips/コツ(院生、アカポス…)

大学院生の皆さんに贈る、院生生活のTipsです。
0 Publish or Perish(出版するか滅びるか)
何かひとつだけ挙げろと言われればこれですね。少なくとも、専任になるまでは、博士号を取得することと論文を量産することが求められます。もちろん人生にはアップダウンはつきものですが、ダウナーな時期は「本を1ページだけでもいいから読む」「文章を1行でも良いから書く」の精神で!
1 アルバイトはほどほどに
確かに生活もありますので、ある程度収入源を確保したいのはとてもよくわかります。しかし、研究というのは一定程度の時間のコミットも必要とされます。教育関係のバイトでも、週2回合計4〜5時間がせいぜいではないでしょうか。大学院の1週間のスケジュールが決まるまではアルバイトを確定させないほうが良いかもしれません。あと、土日は、学会や研究会などがあるので、できればアルバイトは入れないほうが無難です。
2 学部業務は研究者になるためのキャリア教育の機会
もし教員からTAや実地調査の手伝いなどを求められた場合、なるべく応じたほうが良いでしょう。それは多くの場合、あなたをコキ使おうと思っているのではなく、研究者になるための訓練としてあえて依頼していることも多いものです。
3 授業・演習において何が重要かを決めるのは教員
大学院では、学部のようには「授業評価アンケート」もないことが多いですし、自分の意見を反映してもらえる余地は、学部時代より小さくなったとみるべきでしょう。授業・演習の題材、内容、進め方などについてクレームしたりすることは、よほどの理由がない限りは避けるべきであり、やりたい授業は教員になった暁にやりましょう。また、既に受講した修士1年向けの基礎論などを除き、指導教員のゼミには継続して登録しましょう(学年が上になったり、修論が近づいてきたら、出席は多少は大目に見て下さるはずです)。
4 できるだけ教員とは会って話しましょう
特に学生から教員に通常の業務外のことがらをお願いしたりする場合、できればオフィスアワーなどを尋ねて直接話をしたほうが良いでしょう。オフィスアワーの情報はたいていどこかに公開されています。
5 指導教授は原則として変えられないものだと考えましょう
どの研究科でも数年に1名ぐらい、指導教授を変えたいと言い出す学生が見受けられるようです。が、指導教授が退職する・移籍するなどの相応の理由がない限りは、指導教授の変更は容易ではないと覚悟しておいたほうが良いでしょう。
6 ネットでの同業者への愚痴・悪口はやめましょう
ネットというのは思ったよりも多くの同業者が読んでいるものです。あなたの実名がわかる文脈においては、先生、院生など同業者についての愚痴、悪口は避けたほうが無難です。逆に、実名ブログあるいは学会発表などにおいて、他者の著書・論文について建設的に批評することはむしろ歓迎されることでしょう。