イギリス心理主義のゆくえ: Therapeutic Culture in Britain by Frank Furedi

Therapeutic Cultureを読み始めて2週目。今週は、Frank Furediの"The Silent Ascendancy of Therapeutic Culture in Britain"です。
アメリカがセラピーずきなのは自明だとしても、ではイギリスではどうなのでしょうか。著者氏は前半、いろんな事例を非常にしつこく挙げながら、イギリスもまたカウンセリング実践やセラピー的政策が大きく導入されてきた社会であると論じます。
それは、政策の文脈における市民の「感情」の尊重、教育における「自尊心」の涵養などにあらわされていると言います。
また、「Recognition - 承認の政治」というものは、個人の主観性をそのままで妥当なものであると受け入れるという点で、非常にセラピー的なのだと喝破しています。
そして後半では、イギリスにおいて、セラピー的潮流に対して、批判論者さえ目立たないのはなぜなのか、といった議論になってゆきます。
著者氏によれば、それはイギリスの福祉国家政策の歴史や、社会工学的伝統があること、さらには個人の権利への感覚が薄いこと(この3つめは、「オーベイは、オーベイは」と言われてきたイチ日本人には意外ですらありますが)により、政府による市民へのセラピー的介入を基本的にはポジティブなものとして受け入れているからだと分析しています。ブレア政権のブレーンでもあるギデンズが「親密な関係性」にポジティブな評価を与えていることは言うまでもありません。
彼の旧著、THERAPY CULTUREも、イギリスにおける心理主義を詳細に論じた大著でした。

Therapy Culture: Cultivating Vulnerability in an Uncertain Age

Therapy Culture: Cultivating Vulnerability in an Uncertain Age

そこでは、セラピー文化が、現代では個人のバルネラビリティ(弱さ)を強調する文化になってしまっているとの見解が展開されていました。
今回の論文でも、末尾ではそのような議論が提示されています。
セラピー文化には、私的領域のさらなる称揚なのか、それとも、私的領域への国家からの介入を許してしまうものなのか、といった論争があります。フレディ氏も、Roseがクリストファー『ナルシシズムの時代』ラッシュらを批判した文章を引用しています。「一部の社会分析家による、セラピー的なものの拡大の中に、国家による監視や統制の一種をみている妄想的なビジョンは、誤解を招くものである」(P. 41より再引用)。
Governing the Soul: The Shaping of the Private Self

Governing the Soul: The Shaping of the Private Self

私としては、国家かプライベートかという相互排除的な問題の立て方自体がおかしいのであって、まさにそこに出てくる矛盾こそが、セラピー的論理の、そして社会の、現実であり常態であると思うのです。
ひるがえって、日本ではどうなのでしょうか。「世界にひとつだけの花」といったメッセージには、「承認の政治」の日本バージョンが見え隠れしています。あと、ちょっと飛躍しますが、昨今のTwitter世論を見ていると、いわゆる「戦後民主主義」というのは、外在的権威の否定、個人の尊厳の強調、そして教育的平等主義という点で、意外にセラピー的論理に近いのだなと思い始めました。